LOGIN「いいえ、お母様」 私の声は、自分でも驚くほど高く、澄んでいた。「ただ、あまりにも美味しいので、味わっていただいておりましたの。水科の家では、このような素晴らしいテリーヌは、めったに口にできませんでしたから」 ピタリ、と。 美津子のグラスを持つ手が空中で一瞬だけ止まった。 向かいに座る透のナイフの音も、停止した。「お父様の借金の件、ご心配いただきありがとうございます」 私は、美津子の目から一切視線を逸らさずに続けた。「おかげさまで、父もようやく肩の荷が下りたことでしょう。これからは、私が天野家の婚約者として、この素晴らしい環境に見合う人間になれるよう、努力するのみですわ」 私は再びナイフとフォークを手に取り、テリーヌの最後の一口を美しく切り分け、口に運んだ。 味などしない。ゴムの塊を噛んでいるようだ。 だが、私はそれを咀嚼し、嚥下し、ナプキンで口元を優雅に拭ってみせた。「……そう」 美津子の微笑みが、ほんの数ミリだけ、引きつったように歪んだ。「それは、頼もしいことね」 彼女の目から、獲物を甚振るような余裕の色が消え、代わりに、不気味なものを観察するような冷酷な光が宿った。 私が「泣いて崩れる可哀想な娘」の役を降りたことで、彼女の筋書きに、明確なエラーが発生したのだ。 次の皿が運ばれてくる。 メインの、真紅のソースがかかった鴨のロースト。 私はそれも、言葉を挟まず、完璧なマナーで切り分け、一口残らず胃の腑へと収めていった。 透は、相変わらず一言も発しなかった。 だが、彼のナイフは止まり、彼自身のメインディッシュは半分以上が手つかずのまま残されていた。 彼の視線が、テーブルのクロスに落とされたまま、一度だけ、微かに私の方へ向けられた気配がした。 驚愕か、それとも恐怖か。 そんなものは、今の私にはどうでもよかった。 私はもう、この屋敷の誰にも期待しない。……そう決めたはずなのに、彼の止まったナイフがまだ目の端に引っか
彼は、目の前のテリーヌを黙って切り分けている。 その動作は機械的で、彼の意識がこの食卓の会話から切り離されているかのようだった。 ただ。 ナイフを握る彼の右手の指先が血の気が失せるほどに白く鬱血しているのが見えた。 カチャッ、カチャッと、銀食器が陶器に触れる音が、不自然なほど細かく、何度も鳴っている。 彼は、無関心なのではない。 私の視線に気づいていながら、美津子の言葉に反発したいという衝動を、自分の内側で必死に殺し、抑え込んでいるのだ。 彼がここで私を庇えば、美津子の攻撃はさらに鋭さを増し、私への監視や精神的圧力は倍増する。あるいは、彼自身が美津子に対して背負っている「過去の死者たちへの罪悪感」という呪いが、彼が母に逆らうことを物理的に封じ込めているのかもしれない。 理由は、どうでもよかった。 結果として、彼は沈黙を選んだ。 私を一人で、この毒を含んだ食卓の中に放置することを選んだのだ。 肋骨の内側で燻っていた小さな期待の炎が、シュッと音を立てて消え去った。 ああ。 そうだ。誰も、助けてくれない。 前世の会議室で、同期の紗耶が泣き崩れ、私が極悪人に仕立て上げられていった時。 営業部の新堂も、直属の上司も、他の同僚たちも、みんなそうやって目を逸らし、自分の手元の資料だけを見つめて沈黙していた。 誰も私を庇わなかった。組織の『空気』に逆らうことのリスクを恐れ、私が生贄として消費されていくのを、ただ黙って見過ごした。 透も、同じだ。 彼がどんなに内面で苦しんでいようと、どれほど私を心配していようと。ここで口を開かない限り、彼は私を殺すからくりの一部でしかない。そう思うのは酷いとわかっていた。それでも、今だけは透の事情まで抱えていられなかった。 胃の奥から、冷たい泥水のような絶望がせり上がってくる。 隣の「誰も座らない席」が、まるで私を招き入れるように、虚無の口を大きく開けている気がした。 理沙も、二人目の花嫁も、この席で、美津子の優雅な毒を一人で浴び続けたのだろう。 誰も助けてくれない絶望と、自分の存在
ナイフとフォークが陶器に触れる、かすかな音だけがダイニングルームに響く。「凛花さん」 一口目を飲み込んだところで、美津子がふわりと微笑みかけてきた。「昨夜は、よく眠れましたか? 夜中にお部屋を抜け出して、お屋敷の中を歩き回っていらしたと耳にしたのだけれど」 ピタリ、と。 私のナイフの動きが止まった。 美津子の視線は、優しい母親の顔をしたまま、私の皮膚の表面を鋭利なメスで撫で回している。 黒瀬が報告したのだ。私が昨夜、中庭へ通じるガラス戸の前にいたことを。あるいは、別の監視の目が、私と透が中庭で接触していたことまで伝えているのだろうか。「……ええ。少し空気が乾燥していたせいか、寝付けず、喉を潤したくなりまして」 私はナイフの柄に指を添えたまま、表情だけは崩さずに答えた。「そう。お可哀想に」 美津子は、大げさに細い眉をひそめてみせた。「水科の古いお家とは、ずいぶんと勝手が違うでしょうからね。隙間風の入るお屋敷で育たれた方には、天野の完璧な空調は、少し息苦しく感じられるのかもしれないわ」 隙間風の入るお屋敷。 その一言が、テーブルの空気を急に重くした。「でも、安心なさってね。お父様のもとには、昨日、当家からの融資が正式に実行されたと連絡がありましたから」 美津子は、ワイングラスを優雅に持ち上げた。「これで、水科のお家も、毎日のように借金取りの影に怯える生活から解放されたはずよ。お父様も、さぞやホッとされて、昨夜はぐっすりと眠られたことでしょう」 私は、膝の上でナプキンを握りしめた。 借金取りに怯える生活。 それを、次期当主である透の目の前で、そして何人もの使用人たちが控えるこの公の場で、これほどまでに上品な言葉でラッピングして突きつけてくる。「あなたも、もう無理をして強がらなくてもいいのよ」 美津子の声は、どこまでも甘く、慈愛に満ちていた。「家を救うために、ご自分の身を犠牲になさったこと。わたくしたちは、ちゃんとわかっていますから。……こ
指先に、まだ微かな熱が残っている気がした。 昨夜、冬の夜風が吹き抜ける中庭で、透の左手首を握りしめた時の感触。 冷え切っていた彼の肌の下で、脈が早鐘のように打ち、そして火傷の痕へと伝わっていく不器用な体温があった。 彼は私を遠ざけようとした。僕に近づけば不幸になると、自分自身を呪いのように縛り付けながら。だが、その拒絶の奥にあったのは、私を傷つけたくないという痛切なまでの怯えだった。 ――あなたは呪われているわけじゃない。ただ、真実が見えていないだけよ。 私がそう告げた時、彼の瞳孔がほのかに揺れ、言葉を失ったあの顔が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。 自室の鏡の前で、私は自分の唇にコーラルピンクの口紅を引いた。 今日は、美津子が主催する本邸の晩餐がある。 昨日一日、透が仕事で不在だったこともあり、私はあの夜以来、彼と顔を合わせていなかった。 時計の針が午後七時を指す。 控えめなノックの音とともに千尋が迎えに来て、私は重いマホガニーの扉を開けた。 一階のダイニングルームへ向かう廊下は、シャンデリアの光が深紅の絨毯を照らし、完璧な静けさに包まれていた。だが、私の心臓の鼓動は、昨日までのそれとは少し違っていた。 透が、そこにいる。 彼が私の言葉をどう受け止めたのか。あの氷の仮面の奥で、彼の中で何かが少しでも変わったのか。 ほんの小さな、バカみたいな期待が、胸の底で小さな炎のように燻っていた。 ダイニングルームの重厚な両開きの扉が、使用人たちの手によって音もなく開かれる。 圧倒的な広さを持つ空間。 長大なマホガニーのテーブルの上座には、すでに天野美津子が座っていた。 今夜の彼女は、深いワインレッドのドレスに身を包み、デコルテには大粒のルビーのネックレスが血の滴りのように妖しい光を放っている。 そして、その右側。 透が、濃紺のスーツ姿で座っていた。 私が入室しても、彼は視線を一ミリもこちらに向けなかった。 背筋を真っ直ぐに伸ばし、手元のクリスタルのグラスを見つめたまま、まるで精巧に作られた蝋人形のように微動だ
「だから、言っただろう」 透は、私から一歩後ずさった。「僕を信じるなと。……僕に近づく人は、必ず不幸になる。君も例外じゃない」 私の肋骨の内側で、鋭い痛みが走った。 この人は、本気でそう信じ込んでいるのだ。 理沙の死も、二人目の花嫁の死も、すべて自分が背負った「呪い」のせいだと。自分が手を差し伸べなかった過去の罪が、今の婚約者たちを狂わせ、殺しているのだと。 違う。 それは呪いなんかじゃない。 理沙を突き落とし、二人目の花嫁に薬を盛り、記録を物理的に削り取って消し去っているのは、目に見えないオカルトめいた呪いなどではなく、紛れもない「人間の悪意」だ。 美津子が構築した、合法の顔をした排除の仕組み。 透は、その仕組みに守られているのではなく、その仕組みの中で永遠に罪悪感を植え付けられ、母親の支配下に置かれるための「最も都合の良い囚人」として生かされているだけだ。 残酷だと思った。 けれど、だからといって、彼の沈黙が私を傷つけなかったわけじゃない。晩餐の席で何も言わなかったことも、守るという顔をして遠ざけたことも、確かに私を一人にした。 怖がっている人だとわかった。けれど、怖がっているから何をしてもいいわけじゃない。その弱さまで含めて、目の前の天野透なのだと思った。 前世の会議室で、私は自分がやったことの意味を悪意で書き換えられ、極悪人に仕立て上げられた。 透は、自分がやっていないことの罪まで背負わされ、自分が呪われているという嘘の筋書きを、何十年も信じ込まされている。 私は、両手を身体の脇で強く握りしめた。「……不幸になるかどうかは、私が決めることです」 私の声は、震えていなかった。 夜の冷気を真っ直ぐに切り裂く、平坦で確かな声。 透の目が、驚きに見開かれる。 私は彼に向かって、再び距離を詰めた。「あなたが過去に誰を助けられなかったとしても、あなたの腕にどんな傷があろうとも、それはあなたが私を遠ざける理由にはなりません」「君は、僕の話を
彼は隠していた右腕をゆっくり前に戻し、左手でその引き攣れたケロイドの表面を強く、自傷するように握りしめた。「僕が……僕の弱さが、この傷を作り、そして奪った」「奪った?」「十数年前だ。あの温室の奥には、離れへと続く古い通路があった」 透は、私を見ているようで、私ではない過去の亡霊を見つめているような虚ろな瞳で語り始めた。「火が出た時、僕はそこにいた。炎が広がる中で、助けを求める声が聞こえた。だが……僕は、恐怖で動けなかった。腕を焼かれる熱さと痛みに怯え、手を伸ばすことができなかった」 彼の左手の指が、右腕の傷に深く食い込んでいる。 白く美しい肌と、赤黒く爛れた火傷の痕のコントラストが、月明かりの下でひどく痛々しく見えた。 反射的に、傷跡へ手を伸ばしかけた。 けれど、指先が彼の腕に触れる寸前で、私はそれを止めた。 同情で触れてはいけない傷がある。本人が差し出してもいない痛みに、こちらの正しさだけで踏み込めば、それは美津子がしていることと同じになる。相手の領域を、守るという言葉で勝手に決めつけることになる。 透は、私の止まった指先を見ていた。隠したいのに見られたくて、拒みたいのに拒みきれない。そんな矛盾が、彼の喉元で小さく震えているようだった。「……触らないのか」 掠れた声で、彼が言った。「触れていいと言われていないから」 私は答えた。「でも、見なかったことにはしません。あなたが隠したいと思っているものも、あなたを縛っているものも、私は勝手に綺麗な話にはしない」 月明かりが、彼の火傷の痕の凹凸を淡く浮かび上がらせていた。そこにあるのは、怪物の証でも、呪いの刻印でもない。ただ、幼い誰かが確かに炎の中で痛みを受けたという、消すことのできない記録だった。 透は答えなかった。けれど、傷を握り潰していた左手の力が、かすかに緩んだ。 それは、恋に似た甘さではなかった。 まだ、彼を信じるには早すぎる。彼の言葉は何度も私を突き放し、彼の沈黙は何度も私を一人にした
私は、自分が置かれている状況の本当の致死率を、肌の表面温度が奪われていく感覚とともに理解していた。 透は、これをどこまで知っているのか。 従姉である理沙が、母である美津子の手によって殺されたことを。 温室で、あの白い花に向けられていた、痛切な懺悔の表情。 ――僕に近づく人は、必ず不幸になる。 彼が私を遠ざけようとしたのは、自分の近くにいた身内が、自分のあずかり知らぬところで『病気』にされ、排除されていった過去があるからだ。 彼自身もまた、母の作り上げた完璧な隠蔽の中で、真実の輪郭を掴みきれずに、ただ結果としての『死
「……ははっ」 佐伯が、急に肩を揺らして低く笑い出した。「野良犬、ね。こりゃ驚いた。ただの哀れな生贄だって噂は、大外れってわけだ」 彼はスーツのポケットから、古びた手帳とボールペンを取り出した。「いいでしょう。乗りましょう、その取引。……で? あんたが掴んだ『手がかり』ってのは?」 私は深く息を吸い込み、記憶の奥底に焼き付けていたあの数字を口にした。「十一月十二日」 佐伯のボールペンが、紙の上でピタリと止まる。「…&hell
スッ、と。 無臭に保たれているはずの化粧室の空気に、異物が混じった。 ほのかな、だが確かな、タバコのヤニと安物の缶コーヒーが焦げたような匂い。 天野家でも、この高級サロンでも、絶対に嗅ぐことのない匂い。それは、前世の広報部のオフィスや、徹夜明けの会議室で嫌というほど染み付いていた、俗世間のノイズそのものの匂いだった。 私の身体が反射的に硬直した。 洗面台の大きな鏡。その鏡越しに、私の背後――化粧室の奥にある、清掃用具入れの扉が、音もなくわずかに開いているのが見えた。「……驚かせるつもりは
肌を刺すような冬の寒気から一転し、店内はむせ返るような暖気と、濃厚なローズの香水に満ちていた。 銀座のメインストリートから一本裏に入った、看板のない完全予約制のオートクチュール・サロン。 壁一面を覆う巨大な三面鏡の前で、私は両腕を水平に上げたまま、じっと息を殺していた。 初老の女性フィッターが、メジャーを私のウエストから背中へと素早く滑らせ、まち針を次々と生地に打ち込んでいく。「……ええ。素晴らしいお背中のラインですわ、凛花様」 フィッターは、絹の擦れるような声で褒めそやした。「美津子様







